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沖縄平和行進と県民大会参加記 ―2015年5月12日~17日 高権一さん

長野でチェジュ島、カンジョン村と平和交流を長く続けておられる板倉弘実さんから届きました。
ご一読ください。

高権一さん、長野からの帰国、6日後に沖縄行。
4版、160枚の「参加記」をおくってくれました。
自然、宇宙、哲学…、めっぽうおもしろい。

「辺野古のたたかいと、カンジョンのたたかいかが重なって見えた。
ただ、辺野古の闘争は、全沖縄県民が一つになってたたかう契機をつくっているのに反して、カンジョン村では、済州島の地域社会がそっぽを向いているに中で孤立していて、海軍建設が建設される結果になった」とも。
阿波根先生の「戦争の最大の友は無関心である」。「平和の最大の敵も無関心である」も、紹介しています。
心の中で思っているだけでは、高権一さんたちにとって、無関心と同じ?
6日間の報告。2日分だけの抄訳を添付します。
ご参考に。
板倉弘実
           **********

沖縄平和行進と県民大会参加記 

     ―2015年5月12日~17日

高権一 カンジョン村海軍基地反対対策委員長


同行者 生命平和3街路食堂総支配人 キム・ジョンファン。

      カンジョン村会運営委員、平和商団理事兼カンジョン書籍村代表 キム・ボンキュウ。   

      カンジヨン村会副会長 チェ・ヨンボム

      私・高権一(コ クォルニ)

 

5月12日(火)

狭くて眠ることもできず、身動きも難しい。

 チェ・ヨンボム副村会長が機内有料サ-ビスで、缶ビ-ルを3個買ってきて回した。

いつの間にか2時間15分が過ぎて、地図の検索で、インチョン空港と那覇空港間の直線距離、1268kmが0になる瞬間が来た。軽い振動があって、那覇空港の滑走路に滑らかに降りた。国際線の操縦者は、国内線の操縦者よりも腕がいいらしい。

飛行機と待合室をつなぐ通路で、ムッとする熱気を感じた。

これが、沖縄だ!

今までに、沖縄と済州島カンジョン村で、それそれぞれ3回、沖縄とカンジョンとの連帯活動が行われたが、私は裁判所に旅券の発給を止められていたので、来たくてもこれなかった島なので、感慨が深かった。

 一階の待合室に行ってみると、私たちよりも早く出発した韓国平和紀行団が待っていてくれた。

「平和の風」のク・ジュンソ、「参与連帯」のファン・スヨン、ビヨンテクの「フンサ団」の前幹事のキム・デゴン、「民生連帯」のイ・フェジョン氏が合流して、一行は8人(9人?)になった。
 日本の皆さんも待っていて下さった。

カンジョン村を訪問された大村さん(もと教師、現在沖縄公式ガイド)と、富山さん(民衆連帯代表)が歓迎して迎えて下さった。通訳は、後で「アラビヤの王子」のニックネ-ムをつけたヒロユキ氏。

空港の建物を出た瞬間、ファ-とする熱気と、照りつける真夏の日射しが殺人的だった。

瞬間、「あヽ ここで一週間過ごさなければ…」と心配になった。

沖縄と済州島は、風俗的な面でも、歴史も、よく似ていると聞いていた。

石垣の道と糞豚、辛いものと豚肉を好むと食文化、「フンキルドジョン」に出てくる南側朝鮮の話し

25人乗りの貸切バスで、南東部にある平和記念公園に向かった。

窓外に見える風景は日本の本土とは全く違っていて、むしろ、済州島に似ていた。現代式建物の構造も、ピョンスラブを好む済州島に似ていて、色彩感覚まで似ていた。

あちこちにある日本語の看板がなかったら、済州島だと錯覚するほどだ。

平和公園に到着したけれども、遅れてしまって、資料館を見ることができなくて、外観だけを回って見た。

最初に、韓国人慰霊塔を見た。

第二次世界大戦の末、沖縄決戦のために30万人の日本軍がこの島に入るのに合わせて、約1万人の朝鮮人徴兵軍が沖縄に配置され、ほとんどら全滅の被害を受けたという。

後に、沖縄で平和祈念館をつくろうとすると、パク・チョンヒ大統領の時、韓国の政府が北朝鮮よりも前に建設しなければならないとして、わずか、3日間(?)で慰霊塔をつくって船に載せて沖縄に運んだという。パク・チョンヒ大統領についての否定的評価については、耳にタコができるほど聞いているけれども、このこと一つだけをとっても、決断力が優れているように見える。それで、誉める人も多いのだろうと思う。

平和記念公園の南側に、高さが3050mの絶壁につながる海岸がある。

この絶壁の下に,当時、大勢の民間人が、皇軍の洗脳教育によって、野獣のような米軍に辱めを受けて生きるか、清潔な身体のままで死ぬかの信念で、数多くの住民が投身自殺したという。

当時、海が7日間、血で赤く染まり、その死体をかじって食べた魚が太ったという。

戦争の野蛮を感じ取らなければならない場所であるにもかかわらず、あまりに美しくて、哀しい場所だった。
 

その絶壁に向かい合って,平和の噴水台があった。

この噴水台の意味は、沖縄から平和の波が全世界に広がるようにという願いをあらわすデザインだという。

後日、広島と長崎の平和公園にも同じ噴水台がつくられたそうだ。


 それから、ずっとつながっている墓碑。

 どこかで見た墓碑だ。済州島の「4・3平和公園だ。

 沖縄と済州島は、このようなことでも似ている。この平和公園は、沖縄への修学旅行の必修コ-スだという。済州島も、イ・ソクムン教育長になってから、43平和公園が修学旅行の必修コ-スなった。済州島が少し遅れたけれども、二つの国の青少年が平和公園の見学を通して平和の感受性を育てて行ったら、二つの国の間のかすは、いつか、必ず、きれいに洗われる時がくるだろう。

 ここに眠る戦争の犠牲者の中には、日本軍の司令官の名前もあった。

 その司令官は自害して、「日本人よ、最後までたたかえ」と遺言を残したために、軍人と民間人の犠牲者がいっそう大きくなったという。

《そのような人間ならば、名前を削り取らねば

 瞬間、こみあげてくるものがあったが、抑えた。この人たちに、どうして悲憤慷慨がなかったといえようか。血を分けた一家親戚たち、被害の傷をそのまま受けている人たちが下した決定ならばと思って、吐き出す気分が消えた。

一番隅の墓碑に、北朝鮮出身の犠牲者の名簿と、韓国出身者の名簿があった。犠牲者が発掘されるたびに、名簿を追加しているが、1万人どころか、3万人を少し超える水準だ。名前さえも残すことができない数多くの同胞たちがこの南の島に連れてこられて、生命を失ったという思いに、ふと、哀しい思いにとらわれた。


参拝を終えて、宿舎に向かった。

 宿舎は、西北部の名護市の民宿だ。民宿の主人は、名前は覚えていないが、若いころ、日章旗を焼いて裁判所に立てて、極右の殺害脅迫が続いたという。

彼は圧迫に屈しないで、堂々と、「日本は民主主義の国だ。けれども日本は、返還された沖縄の住民を国民として認定しなかった。だとしたら、日本は民主主義の国ではない。国民として認定しないのなら、どうして、日章旗を国の象徴旗といえるか? 日本がほんものの民主主義国家になって欲しいという意味で、過去の遺産である日章旗を焼いたのだ」と主張して、無罪をかちとって、熱烈な市民たちの支持を得て市会議員に当選した。後に、「市会議員になりたかったら、日章旗を焼け」という冗談が生まれたそうだ。

 今は隠退したけれども、政治活動を熱心に続けておられて、沖縄の権利を回復する闘争をする人に宿泊所を提供するために、民宿をしているという。彼の思いにかなう客がきたら、自ら醸造した酒と魚をふるまうそうだ。けれども、主人はと東京に出かけていて、留守だった。


初日、午後4時半から短い時間の沖縄探訪だったが、身体が汗まみれになり、早朝からの旅行で「ねぎキムチ」になり、シャワ-を浴びると急に疲労感が襲ってきた。近くのマ-ケットで、酒などを買ってきて、交流会兼パ-ティをしたが、何杯も飲まないで、ベッドに入った。

 沖縄は今も、済州島がほとんど失いかけている青い夜を、ある程度、残している。

 けれども、熱帯夜で、エアコンなしで眠るのは不可能のように感じた。


  5月13日

 早朝530分ころ、目が覚めると、それなりに涼しかった。

 けれども、それだけ。太陽が昇った瞬間、気温もはね上がった。

 630分、出発。朝食はバスの中で簡単な弁当。

 今日は、通訳に加藤さんも加わる。ヒロユキ氏のように東京から来られた方で、韓国の大統領が訪日した際、日本の首相との会合で、同時通訳をされたほどの日本最高の実力者だそうだ。中年の女性で、ゆったりした方で、笑顔がとても明るい。無料奉仕で、最後まで私たちとごいっしょしてくださると。大いに感謝。


伊江島は、沖縄の北西側に位置する付属島で面責は牛島の2倍ほど。ヘリで、30分。

頭の中に、とりとめない考えが浮かぶ。

沖縄の全体の面積は、済州島の約15倍。けれども、沖縄本島の面積よりも済州島が1・5倍ほど大きい。済州島の人口は現在、55万、沖縄の人口は110万で、済州島のちょうど2倍だ。済州島よりも小さい沖縄本島の人口は、約80万人で、人口密度がとても大きい。けれども、平野が多いので、土地が不足するようには見えない。山がない、沖縄の特徴のようだ。


エメラルド色の海に船が浮かんだ瞬間、頭の中の妄想はきれいに消えた。

あちこちの浅い海に、サンゴ礁があって、頭を海面に出している。時々、無人島も見える。

ワオ-! サンサンゴは、地球上で、地形を変えることができる一番偉大な動物だ。数千年経てば、あちこちに、もっとたくさんの島ができるだろう。

人間という宗族は、100余年前から、機械文明を起こして地形を変化させたが、「業的」に見れば、サンゴ礁とは比較できない。
 サンゴ礁は、事実、サンゴだけの力でできるものではない。サンゴがつくりだす固い石灰質の骨格の上で植物が育ち、死んで、土が重なって、環太平洋火山帯の活動によって隆起して、現在の島になったのだそうだ。地球と、地球に寄りかかって生きている動植物が、一つの生命体のように相互作業してつくりだした島だという。沖縄本島の半分も、このようにしてつくられたサンゴ礁だそうだ。動植物が、地球上で一番豊富な窒素と炭素、酸素を、有・無機質として貯蔵して島をつくったのだと。

どれほど、完璧な自然の贈り物であることか!


ああ、ただ、そのままに存在させてくれたなら!


当初、土地は、誰の所有物でもなかった。
生命体は、生きている間、生の半径、即ち、領域があるだけだった。

地球上で、人間だけが、土地の持ち主を定めた。

だとしたら、土地の内部は誰の所有物か?

地表の土地の面積の境界線から、垂直に線を下に引いていったら、結局、地球の中心の一点に達 

する。

いくら巨大な大陸でも、地球の中心では、一つの点になる。むなしい!


空は、誰のものか?

自分が所有する土地から、線を垂直に、無限に延長していったら、地球を中心にするすべての宇 

宙が、地球の所有物になるか?

地球が宇宙の中心だったら、このような考えも認められるだろうけれども、残念なことに、地球 

は宇宙の中心ではない。はずれもはずれ、大はずれだ。

いずれにしても、この宇宙は、太陽系は、地球は、永遠の存在ではない。

計算上、何百万年か、何億年に及ぶ壽命があると推測されている。けれども、明日、否、今すぐにでも消滅する可能性もある。

今、私たちの目に見える星も、何十年、何百年、何億年かかって、私たちの目に到達して光っているのだけれども、事実はすでに消滅して、存在しなくなっているかもしれないのだ。

このように、虚しさ限りない物質に対する所有、特に、土地の所有に執着するのが戦争の始まりだ。

「自由」は、そのまま、存在の自由、私有の自由でとめなければならない。

所有の自由を認める資本主義の方式は、戦争の禍根だ。

イデオロギ-から話し始める社会主義,共産主義も、結局、国家の所有を認めることから、国家資本主義に過ぎない。

所有は、より大きな所有を持つものに、君臨を許容する。

言葉としてだけ、自由と書くけれども、結局、束縛を意味する単語、自由民主主義。

平等だというけれども、結局は、足枷にたどりつく単語、社民主義。

いつになったら、無所有の原則が実現される社会を見ることができるか?

無所有を説いた釈迦牟尼は、教えだけを残して、世を去った。

後学たちにとって、実践の道は、あまりにも遠い。

人類は、もう一人の師匠、イエス(私は個人的には、モハメッドと同一人物だと見ている)は、「貧しさ」が天国に行く最高の鍵だという教えを残した。やはり,無所有だ。けれども、教団が設立された瞬間、所有に執着した。

大師匠たちの教えを実践するには、距離があまりに遠い。

けれども、放棄しようとすると、良心が痛む。妥協点を探すのも容易じゃない。

ただ、「前の修飾語」を捨てて、民主主義だけを見て生きよう。

それなりに、私が選択できる最高の妥協点とも考えた。


朝よりもいっそう複雑になった考えで頭がいっぱいになったころ,伊江島に船がついた。

伊江島も、やはり、サンゴ礁の島なので、他のサンゴ礁の島のように。マラ島や、カパ島のような姿をしているだろうと想像していたが、どうしたことか? 真ん中に、とがった峰が一つあった。

チョンファン兄さんが、「済州島の縮小版みたいだ!」と叫んだ。

平らな島の真ん中に、盛り上がっている峰があって、そのように見えたのだ。

私たちの旅に伊江島を選んだのは、沖縄で、米軍基地に対する抵抗運動が一番初めに起きたのが伊江島だからだ。

最初に訪ねたのは、反戦平和資料館だった。

この資料館は、伊江島で反基地運動を、最初に始めた阿波根ショウゴ先生が、生涯をかけてたてかって集めた資料を展示する私設資料館だ。

 戦争が終わって島に戻った時、自分の家と土地が米軍の基地にとられていたという。

島に戻る時、先生は自分の土地に農民学校をつくる夢をもっていたけれども、土地は返してもらえなかったので、テントを張って籠城を始めた。

家を失った島の住民たちがテント籠城に同調して、闘争の種を育てた。

 けれども、戦後、沖縄全体が米軍政の監理下に置かれていたので、日本国の法律が適用されなくて、米軍は強制的に奪った土地を返す意向がなかった。

伊江島は、米空軍が爆撃訓練のために建設した訓練用飛行場だった。耳をつんざくようなジェット騒音と爆撃に悩まされる生活が始まった。

先生は記録しておかなければならないという一念で、財産をはたいてカメラを買った。フィルムの購入と現像は、本島に行かなければできない。歩き、丸木船に乗って行くのに、4~5日かかる不便を乗り越えて、先生が生涯をかけて休むことなくたたかい、記録した資料が展示されている。

 島民たちは、後に、訓練場に落ちる爆弾の破片を拾ったり、不発弾を解体して古物として売って生計をたてたりしたという。不発弾が爆発して、2~3人ずつ生命を失うことがあり、不具になることもあった。

このような或る日、訓練場の真ん中に、3mに及ぶ巨大な爆弾が地面に突き刺さっているのが発見された。模擬核爆弾だった。

 それ以後、爆弾を拾って売ることをやめて、爆撃中断要求デモをはじめた。

 ベトナム戦争の期間中、先生は米軍部隊の前に立って、「お前たちは強い。そして、勝った。これ以上、何を望むのか? お前たちは、自分が殺した人間の数を父母に事実のまま話すことができるか? そのことを知ったら、父母や子どもたちをしあわせにすることができるか?」と、休むことなく、静かに、断固たる調子で語り語りつづけたという。

 徹底した私有財産制度下にあった米軍が、島民たち皆が、由緒ある土地売却を拒絶すると、住民の土地を収用することも、所有権の移転もできないままで、賃貸の形式で土地を使った。何千坪かの広さの土地の一年間の賃貸料が、一日分の食費にも足りない額だったという。

 けれども、粘り強く返還要求をつづけて、少しずつ、土地が返還された。一時、島の60%以上が米軍の基地だったが、今は、島の70%ほどが民間に返されたという。最初、米空軍が建設した滑走路は、3つだったが、その内の一つが完全に耕作地に変わり、他の一つが民間空港に変わって、島の一番西にある滑走路とその一帯が依然として米軍の訓練場として使用されているという。

 (この部分の説明に正確でないこがあるかもしれません)


 「当時の米軍には、仁義があったように思う」と、2代目館長の阿波根先生の娘の、謝花えつ子先生が語った(先生は、すでに亡くなられた)。

 けれども、今の米軍は,言葉が全く通じなくなって、いっそう基地を拡大しようとしていて、訓練も、数十倍に増えたという。何年か前では、一週間に1~2時間だったのに、今は、1日に数時間、訓練するという。

 また、伊江島の住民たちも、以前のようにはたたかわなくなったと、切ない言葉も出た。

 けれども、若者たちが本土や本島に行って勉強して帰島する比率が30%を越えるようになったので、若者たちが島で住み続けることを望むと話された。

 阿波根ショゥゴ先生の写真と言葉が,壁にかざられていた。

 「戦争の最大の友は無関心であり、平和の最大の敵も無関心である」。

 カンジョンでも、このような資料館をつくらなければ。

多分、カンジョンの村民は皆そう思うだろう。


 小さい石灰洞窟を探索した。

 戦争当時、この洞窟に村民150余人が隠れていたが、米軍の捕虜になることを恐れた日本の防衛隊が、爆雷を自爆させて大部分が死んだという。生き残った人は20人で、1971年ころ、証言して、洞窟が発掘されたという。生活什器が残されていた。

 

海岸に移動して、戦争当時、1,200人が隠れていて海岸洞窟を訪ねた。

この洞窟に隠れていた住民は、皆、生きていた。ハワイにすんだことがある一人の住民が、「米軍は民間人には決して発砲しない」と説得した結果だという。

洞窟を出ようとした時、高校生たちが入ってきて、ガイドが熱心に説明していた。

日本の学生たちの沖縄修学旅行は、徹底した平和紀行という目的を持っているようだ。


帰途。伊江島湾に向かう道に、黒い牛がたくさん見えた。

キム・ボンギュが、「済州島にも黒い牛がいるけど、ここにも! 農業技術院が、絶滅した黒い牛の遺伝子を培養して復元したと言ってるけど、もしかして、ここから持って行ったんじゃないか?」と疑惑を提起した。

確認する方法はないけれども、遺伝子培養などのことよりも、好ましい道だった。姿が間違いなく済州島の黒い牛だったからだ。


夜、8時を過ぎて、海軍基地反対汎道民委員会共同代表のコ・ガンソ氏と、緑色連合のシン・スヨン氏が到着。韓国平和紀行団は10人になり、遅くまで酒の席が続いた。


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# by mitsuart | 2015-07-11 11:34 | 韓国チェジュ島、カンジョン村、平和運動

つるばらが咲いていた

つるばらが咲いた。

 
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# by mitsuart | 2015-06-03 16:26 | 空  夢

今年は女性参政権70周年

新しい国際女性デーのカードを紹介します。

 2015年女性と政治キャンペーンでは3月8日を中心に、女性参政権70周年記念して、女性議員を増やしましょうと呼びかけます。主催は全国フェミニスト議員連盟が中心になって全国各地でイベントがあります。
 
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# by mitsuart | 2015-03-04 22:12 | 女の連帯カード

「非武装・平和の島宣言、3周年記念行事」

「非武装・平和の島宣言、3周年記念行事」のお誘い

長野で韓国・済州島 カンジョン村海軍基地反対運動に連帯し、支援活動を続けている板倉弘実さんの最新ニュースをお届けします。

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韓国・済州島 カンジョン村海軍基地反対運動に連帯
韓国済州島 カンジョン村で今何が起こっているのか?こちらをごらんください。
カンジョンレポート
# by mitsuart | 2015-01-20 21:19 | であい

駅ステーション展によせてーむかし平和な社会があった

「むかし平和な社会があった」
 かつて戦争がない平和な社会がありました。それはおよそ紀元前6500年から3500年の間の3000年間、はるか昔です。
女神が中心である農耕民族の社会でした。平和な社会があったということを発見したのは、マリヤ・ギンブタス (1921-1994) さんという考古学者です。『古ヨーロッパの女神と神』という本が出版されています。彼女はさまざまな女神や神を崇める母系的な (母権的ではない) 文化の存在を結論づけました。初期農耕社会に生きた人々の生ー死ー再生の世界観がみちている社会は闘いを好まず、平和で平等な社会でした。
 女性も男性ものびのびと自然と調和した暮らしを楽しんでいました。富が集中することのない公正な社会はとても住みやすく誰かを抑圧することはありませんでした。

〈誰もが互いに認めあい、一人ひとりがかけがえのない存在として
大切にする社会〉は、日本国憲法が目指している社会と同じですはありませんか。
 
 考古学と図像解釈学(イコノロジー)という専門分野の門外漢である私がこの本を知る前に造った陶作品が、この本に納められている陶土で造られた出土品の雰囲気と似ているからです。ちょっと興奮しています。
 
 今回の私の作品は銅版画ではありませんが、銅版画を教えてくださった、今は亡き古野由男先生の作品のタイトルは常に「平和」だったことを想いだしています。私が今まで制作作してきた「女の連帯シリーズ」に女たちがつくる「平和」という課題がもうひとつ加わりました。

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# by mitsuart | 2014-10-13 11:24 | であい